1月1日(祝)

年頭会

「汝すべからく一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祷るべきものか」『立正安国論』

年頭会は、世界平和の中に、私たち一人ひとりの安穏が約束されることを認識し、久遠のお釈迦さまの示す絶対平和が表現された大曼荼羅ご本尊の御前において、南無妙法蓮華経と唱え、真の世界平和を祈念する法要です。
さらに、日蓮聖人が「正月は妙の一字のまつり」「妙とは蘇生の義なり、蘇生と申すはよみがへる義なり」と示されるように、自身においては旧年の反省と共に、唱題によって新たな蘇生を誓う祝日です。
日蓮聖人は「釈尊出世の本懐」と呼ばれる『妙法蓮華経』を通じ「立正安国」の名の下に、真の幸福とは何かを私たちに示されました。
法華経の求める信心は、私たちが題目を唱え他者にも勧め、仏が希求する理想社会の実現に貢献し、世界の幸福を実現することにあります。
日蓮聖人の熱心な信者であった宮沢賢治氏は、冒頭の『立正安国論』を現代の言葉で「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と述べられました。世界の生きとし生けるもの、そして山川草木国土が、私自身であると信じることができれば、すべてのものに優しくなれることでしょう。日蓮聖人が「月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり」と述べられるのは、法華経の一念三千の法門を表す言葉です。それは『立正安国論』の文底に説かれる至極の真理であり、絶対平和の礎を示しています。日蓮聖人の誓願を自己の誓いとする時、その実践は必ず立正安国の確信へと変わり、唱える南無妙法蓮華経の題目は、世界平和を実現する新たな一歩となるに違いありません。唱題の御声により、さらなる一歩を踏み出し、新春の寿ぎといたします。
「春の始の御悦、花のごとくひらけ、月のごとくあきらかにわたらせ給べし」『春の始御書』

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2月11日(祝)

釈尊入滅会・日蓮聖人降誕会

「仏涅槃図 絹本著色一幅」 石川 金栄山 妙成寺所蔵

「法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には、釈迦牟尼仏入滅を取り、この経を信ずる者の前には、滅後たりといえども、仏世に在すなり」『守護国家論』

お釈迦さまは、法華経の中心『如来寿量品』において「永遠の命」と「無限の救済」をお示しになられました。
一方では、法華経を説かれた後、御年八十歳で人々の前からお姿を隠されたのです。その「入滅」の聖日が、二月十五日です。
法華経をひも解き、お釈迦さまの「不滅の滅」の理由を尋ねると、入滅の姿を見せることで、後世の人々に仏への渇仰恋慕の思いを抱かせ、入滅後の正法・像法・末法というそれぞれの時代に応じた教えを遺されました。
さらに、各時代に使者を派遣し、救済をすると記されています。
とりわけ、正しい教えに見向きもせず、我欲に翻弄される悪世末法の時代を救うため、その任を本化地涌、上行菩薩という方に委嘱されました。
「この時地涌の菩薩、始めて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字を以て、幼稚に服せしむ」 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』
法華経は、末法時代の世相を説き、さらに救済の教えを南無妙法蓮華経と定めています。そして、その弘め方まで克明に示されています。
また弘通によって、上行菩薩に降りかかる様々な迫害等の予言を見ると、聖書のそれより具体的に描かれています。
法華経が「仏の未来記」と呼ばれるのは、このような由来からです。末法救済の使命を下に、仏に遣わされた菩薩は、この種々の条件を満たす人です。
その人は歴史上、日蓮聖人を除いて他に見当たりません。日蓮聖人が、久遠のお釈迦さまとの約束を履行するために、ご出現されたことを「降誕」と呼び、その聖日が、鎌倉時代の承久四年(西暦1222年)二月十六日です。
久遠のお釈迦さまの「滅の不滅」と、日蓮聖人降誕の有機的関係性は、法華経における末法時代の必然的要請であることを意味します。
仏の本願は、日蓮聖人の出現によって、歴史的に証明されました。
お釈迦さまの御入滅と共に、日蓮聖人降誕の意義を再確認し、報恩の誠を尽くす誓願の場が、仏祖の報恩会です。
誓願とは南無妙法蓮華経と声も惜しまず唱え、法華経を弘め、他者に題目を勧めることです。

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3月20日(祝)

春季彼岸会

「何としても、此経の心をしれる僧に近づき、いよいよ法の道理を聴聞して、信心の歩を運ぶべし」 『新池御書』

日頃私たちは、自我にとらわれ苦悩に翻弄されながらも、一過性のものと看過しつつ、人生を閉じてしまいます。その姿を、迷いの「此岸」と言います。
一方で、苦悩を直視し、解決しようとする瞬間から、悟りの「彼岸」は始まるのです。悩むことは、苦悩を解決しようとする能動的な心の働きです。
しかし凡人の知恵で、苦悩を解決する方法を見出すのは、とても困難なことです。苦悩の解決、それが仏教の始まりでした。
お釈迦さまは、苦悩の解決に対し、現状認識・原因究明・理想設定・方策実践の四つのカテゴリーで、教えをお説きになられました。
お釈迦さまご自身、その集大成を『法華経』と位置づけられました。
法華経を知る第一歩とは、教えを聞くこと以外にありません。
法華経の『方便品』が「法を聞いて歓喜し、乃至一言も発せば、則ちこれ已に一切三世の仏を供養するなり」と示すのは「聞法」から「歓喜」の心が生じ、自然に「弘教」に至る過程を説いています。
教えを聞き、様々な苦しみを解決した瞬間、その喜びは教えと共に他者へと受け継がれ、さらに、まわりの人々やご先祖にも笑顔をもたらすことでしょう。
仏に対する最上の「供養」は、自ら仏の智慧を求める求道と、他者を導く化導を抜きに語ることはできません。それを「菩薩行」と言います。智慧と慈悲、それは法華経を頂点とした大乗仏教の特徴です。お釈迦さまの弟子たちが、求道と化導に精進されたように、私たちも同じ悟りの道を歩むことが仏教徒としての証です。彼岸とは、人生の苦悩を解決する方法をいつも法華経に求め、それを信心によって受容し、生活の中で実践することです。南無妙法蓮華経と唱えることは『如来寿量品』を中心とした法華経の「本門」に一貫して説かれる末法時代の修行方法です。そして、題目修行の場を『如来寿量品』で「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず。時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず」と説かれ、彼岸の「浄土」と示されました。
さらに、現実世界に生きる人々だけでなく、題目修行の功徳によって、亡き人々を浄土に導く法要が彼岸会です。

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5月5日(祝)

釈尊降誕会(花まつり)

「教主釈尊の出世の本懐は、人の振舞にて候けるぞ」『崇峻天皇御書』

仏教の開祖お釈迦さまは、紀元前949年(周書異記説)四月八日、釈迦族の王子として、お生まれになりました。
宮廷の暮らしは栄華を極め、何不自由のない生活であったことが、今に伝えられています。 ところが、人々が憧れる広い住居、美味しい食べ物、華やかな衣装など、多くの人が幸福の条件とする物に囲まれた生活を、決して幸福と思われなかったのです。
逆にお釈迦さまは、この生活を不自由のひと言で、一蹴されてしまいました。
現代人が抱く幸福感は、お釈迦さまの眼にはどのように映るでしょう。
有限の物質を、無限の欲望で追いかけることが「幸福」であるなら、その果てには「闘争」という大きな不幸が、待ち受けていると考えられたに違いありません。お釈迦さまの出家は、それを物語っています。
お釈迦さまが降誕された際に、七歩歩まれ「天の上にも地の下にも、私たちを支配し貴賤や苦楽を与える神などいない。ただ、私たちの心がけと振る舞いによって貴賤はある。迷える人々が求める幸福は、すべて苦の本であり、私こそ真の安らぎを悟る者」と宣言されたことが、有名な「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾當安之」の誕生偈です。誕生仏の、天地を指さす降魔印はそれを示し、七歩歩まれた由来は、六道の迷いから解脱したことを表すお姿です。
何のために生きているのか。そのとてつもなく巨大な命題に立ち向かい、その答えを得られた人がお釈迦さまです。
それを「悟り」という名で表現されました。お釈迦さまは、悟りの内容を言葉にされ、数々の経典が生まれました。
経典を開けば、必ずや何のために学び、何のために働くか、そして幸福とは何かを気づく手がかりが隠されているはずです。
お釈迦さま自ら、法華経の『方便品』で「一大事因縁を以ての故に、世に出現したもう」と明言されたように、法華経は仏教を統一する教えです。
法華経を学ぶことは、人生の価値を知り、人生を創造する上でもっとも大切な事柄と言えます。4月8日の降誕、12月8日の成道、2月15日の入滅は、お釈迦さまの聖日です。いずれの聖日が無くても、今日の仏教、そして法華経が存在しなかったことは、言うまでもありません。
聖日を常に記憶していることは、仏教徒の心得です。その最初、お釈迦さま御出現の聖日が「釈尊降誕会」です。
お釈迦さまが花園でお生まれになったことにちなみ、御堂の内におわします誕生仏を色とりどりのお花でご供養し、天が降らせた甘露の雨になぞらえ、御身に甘茶をお濯ぎし、お祝い申し上げます。さらに、報恩法要の主旨は「降誕」の意義を自覚し、南無妙法蓮華経の御声により、生誕をお祝いすると共に、私たちがお釈迦さまから、祝意を頂ける人生を送ることをお誓いすることです。

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8月16日(金)

盂蘭盆会

「目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給う。上七代下七代、上無量生、下無量生の父母等、存外に仏となり給う」 『盂蘭盆御書』

私たちの先祖を10代さかのぼれば、1,024人の両親がいます。さらに20代では、1,048,576人の数にのぼります。
その頂点に、今日の「わたし」が存在しているのです。
そのご先祖の一人ひとりが、どれほど多くの人々や生物、そして大地から恩恵を受けてきたことでしょう。「盂蘭盆会」は、お釈迦さまの御弟子であられた目連尊者の亡母、青提女が生前に犯した貪りの罪により、死後、餓鬼の世界に堕ち、飢餓に苦しむところを、目連尊者が法華経の御教えによって、お救いになられたことから始まります。
法華経の『譬喩品』には「若し衆生ありて、苦の本を知らず・・中略・・諸苦の所因は、貪欲これ本なり」と説かれています。施しを忘れ、貪りに生きる人間の本性は、必ず争いを生み、すべての縁を断つ不知恩につながります。自分の都合を優先し、物や親切を得ようとするだけでは無く、自己を忘れ他人を批判することも貪りと言ってよいでしょう。貪りは必ず怒りを生みます。その繰り返しの人生が、いかに虚しいものかを考えなければなりません。
苦の原因を法華経の御教えに求め、人々への施しに目覚めた時、ご先祖を始めとして恩恵にあずかったあらゆる存在のご恩に報いることができるのです。
法華経の『化城喩品』に説く「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」の経文は、過去世・現在世・未来世の三世と、あらゆる存在に対しての「報恩」をひと言で述べています。この経文は、大乗仏教全体を象徴する、お釈迦さまの根本思想を表した珠玉の言葉です。
生者、死者を問わず、私たちができる最高の施しは「釈尊出世の本懐」と名付けられた法華経を信じ、題目を唱え、その功徳をあまねく一切に施すことです。
仏教では、それを法悦と呼んでいます。自己の喜びを転じて、他者の喜びへと蘇生させることが、お釈迦さまの足跡を歩むことになります。
法施こそもっとも大切な布施行であり、盂蘭盆会の主旨に叶う「施餓鬼」となるのです。

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9月22日(祝)

秋季彼岸会

「本より学文し候し事は、仏教をきわめて仏になり、恩ある人をも、たすけんと思ふ」『佐渡御勘気鈔』

仏教を基に「人生」の二文字を考えると「人として生かされてきた恩を知り、人を活かすことで恩に報いる。それが人として生きることである」と説きます。
私たちは、あらゆる恩恵の中で生活していると説くのが、仏の御教えです。
先人は、私たちやご先祖のために「彼岸」という期間を設け、お釈迦さまの御教えに素直に耳を傾け、自らの人生を法華経の明鏡によって問い正すよう、はたらきかけてこられました。
世の中の生滅変化を、事実として静観することなく、自己を取り巻く境遇に動揺する迷いの世界を「此岸」というのに対し、人生のあらゆる苦難を克服できる悟りの世界を「彼岸」と説かれたのです。
お釈迦さまは、すべての人々を此岸から彼岸へ渡すための乗り物を、大乗の教えと名付けられました。その集大成として、お釈迦さまは晩年八ヶ年に『法華経』をお説きになられ、仏教を統一されたのです。
誰もが、苦難を避けることなどできないことは知っています。そこから、苦難は耐え忍ぶものと言う消極的な発想が生まれます。逆に積極的に苦難を活かそうと説くのが、法華経の教えです。『妙法蓮華経』の名は、まさにそれを物語っています。泥水に咲くかぐわしい蓮華の姿は、苦難が人生を豊かにすることを想像させます。苦難を肯定的に捉えた瞬間、そこに向上は約束されているのです。私たちが、今まで忌み嫌い排除しようとしていた事柄の中に、本当に価値あるものが存在することを教えるのが法華経です。無駄と思えることをなし続けてきた人ほど、真実は見え、回り道をしてきた人ほど、近道を知るように、すべての事柄を活かす教えが法華経です。
『如来寿量品』はその世界観を「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり」と説きます。
私たちの人生には、何ひとつ無駄なものはないことを知り、すべての恩恵の中で自分は生かされていると思えた時、日常はぬくもりであふれていると、認識できるに違いありません。それが、かけがえのない日々です。そう思えた瞬間、私たちは生きることを心から味わい、そして実感し、そのまま私たちの人生は、悟りの彼岸へと純化します。さらに、私たちの居場所は、自然に浄土と呼ばれる理想社会へと生まれ変わるのです。 その法悦が、南無妙法蓮華経と口からこぼれ出て、まわりの人々に連鎖し、そして感化を及ぼし、仏の命は継がれてゆきます。お釈迦さまは、私たちが題目を唱えるその場を、彼岸と呼んでおられます。
法華経に出会い、浄土の実現に向け行動することは、必ずまわりの人々や、ご先祖の功徳となります。彼岸会は、それを実感する場です。

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11月23日(祝)

日蓮聖人報恩御入滅会式

「日蓮聖人涅槃図 紙本著色」 山梨 身延山 久遠寺所蔵

「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」『報恩抄』

お釈迦さまは、法華経の中で現代の国際情勢や、現実社会が抱えるあらゆる問題を予測しておられました。
世界の歴史を振り返ると、人類はいつの世も正義の名の下に我欲を優先し、欲望をかなえるために、財力や権力、果ては武力といった「力」で他と争い、弱者を制圧してきました。本来は平和を模索するための知恵が、平和を踏みにじる悪知恵と変わったとしても、人々はそれを平然と受け入れ、日常をこなし、気付かないうちに優越感を求め、勝者を目指しているように思えます。
先進国と名付けられるその実体は、物に溢れる国と言っても過言ではありません。このような幸福観は、国や個人にかかわらず、スケープゴートを必要とします。しかし、人々はこれに眼を閉ざし、豊かさと表現しているのではないでしょうか。法華経は、このような価値観を本に生きる人々を「転倒の衆生」と説いています。そして、転倒の衆生がいる限り、世に災害は絶え間なく起こると警告しています。さらに、災害を具体的に「三災七難」と説き、現代の自然災害と名付けられる豪雨や干ばつ等の異常気象、地震や津波等の震災、そして戦争や疫病等は、私たちの誤った価値観が引き起こす人為的災害と説いています。久遠のお釈迦さまは、この現代社会の価値観に、侵された病人を「失心の狂子」と喩え、その人々の心が創り出す苦悩の時代を「末法時代」と名付けられました。一方で、この悪世を救うことが、法華経が説かれた由縁でもあるのです。法華経には、仏の絶対平和を希求する願いが込められています。
久遠のお釈迦さまは、病める私たちを救済するために、末法時代の良薬として、南無妙法蓮華経の題目を留め置かれました。
さらに、題目を弘める任を本化上行菩薩に託されたのです。法華経の『如来寿量品』で「使いを遣わして」と説かれるのは、まさに仏の未来記を表す言葉と言えます。本化上行菩薩が題目を弘める使命とは、苦悩に満ちたこの娑婆世界を、浄土へと蘇生させることに他なりません。その使命は、日蓮聖人が果たされました。
日蓮聖人を本化上行菩薩の応現と呼ぶのは、法華経の未来を記した経文と、日蓮聖人の体験的事実が、寸分の誤差も無く一致したことによります。
日蓮聖人は、仏の本願を「立正安国」の四文字に込められました。正法を建立し国土を安穏にすることを誓願とされ、悪世末法時代の救済を使命として、生涯を捧げられたのです。仏との約束を履行することが、日蓮聖人のご生涯と言えます。
鎌倉時代の弘安五年(西暦1282年)十月十三日、題目を弘める使命は、私たちへと託され、六十一年のご生涯を静かに閉じられたました。
永遠の救済を約束された久遠のお釈迦さまの大慈悲、そして日蓮聖人の信に死し、願に生きる題目弘通のご生涯に想いを馳せ、立正安国の誓願を新たにすることが日蓮聖人報恩御入滅会式です。

法話

毎月二回 午後一時半より
唱題行・法話(法華経講義 / 日蓮聖人の生涯)

法話についての詳しい内容は法話ページをご覧ください。

法華経講義 日蓮聖人
御遺文講義
睦月 休会 休会
如月 02月05日(月) 02月24日(土)
弥生 03月04日(月) 03月11日(月)
卯月 04月01日(月) 04月23日(火)
皐月 05月11日(土) 05月14日(火)
水無月 06月03日(月) 06月10日(月)
文月 07月01日(月) 07月08日(月)
葉月 休会 休会
長月 09月02日(月) 09月09日(月)
神無月 10月07日(月) 10月21日(月)
霜月 11月04日(月) 11月11日(月)
師走 12月02日(月) 休会